2024/08/20 12:00
たまには、趣味の話でも書いてみようと思います。
コーヒーは趣味のひとつですが、今回はあえて他の趣味について書いてみます。
ズバリ、小説です。小説以外のジャンル(哲学書や自己啓発本、心理学など)の本も、読み物として好きなのですが、圧倒的に小説が好きです。
読書にハマり始めたきっかけは、湊かなえの『告白』で、これは小説としても映画としても有名な作品なので、ご存知の方も多いかと思います。最後のどんでん返しの爽快さに加え、人間の持つ醜さや狡さが絶妙に描かれていて、ミステリという枠組みを超えたものとして、面白い、と感じたのを覚えています。
湊かなえ作品を片っ端から読み尽くし、そこからミステリの沼にハマり、東野圭吾、道尾秀介に出会い、彼らの作品をこれまた片っ端から読み尽くし、ある日手に取った村上春樹に心を奪われました。今は、村上春樹が好きなんです。
特に村上春樹作品は、何がどう魅力的なのかってなかなか言葉にしにくくて、ミステリのように明快な面白さがあるわけでもなく、哲学書のような啓示に富んでいるわけでもなく、なんというかこう、平凡でちょっと不思議な日常がひたすらに続くようなことが多いです(非現実的なことがほとんどですが、村上春樹作品ではまるで日常かのように描かれます)。 掴みどころはなく、ここがいちばんのポイント、という箇所も特になく、読み終えても別にスッキリするということもないので、側から見たら何が面白いのかわからないと思います。でも、面白いんです。
例えるなら、ミステリはディズニー、村上春樹作品は学校だと思っています(主観が入りすぎていますが)。
ディズニーは圧倒的に非日常で、終始ワクワクドキドキして、疲れるけど、その疲れすら心地よいんです。帰路につきながら、楽しかったな、とその日を振り返り、一日かけて撮り続けた写真を見返しながら余韻に浸るんです。終わっちゃったなーなんて思いながらもちょっと寂しい気持ちになる。ミステリに近いと思います。ページを開いた瞬間から異世界に入り込み、冒頭で今回の謎解き要素が提示され、読み進めながら解き明かす。謎解きが終わればちょっとしたエピローグがついていて、終わってみれば、面白かったな、と満足しつつもちょっとだけ寂しい。伝わりますかね、、、。
一方学校(≒村上春樹作品)は、別に通っている当人からすれば非日常ではなく、日常という枠組みの中で繰り返されるものだと解釈しています。壮大な目標も、ドラマチックな展開も、用意された非日常もない、平坦な日々です。ただ、卒業してみると寂しく、あの日常に戻りたいと思ってしまう。なんとなく寂しくて、少し前まで日常だったのにもう戻れない、非日常とも違う喪失感があって、心にぽっかりと形のない穴が開く感覚です。これまた伝わらなさそうですね、、、。とにかく、切ない感じがするんです。村上春樹作品はこの特有の切なさがあり、息をするように読み進め、気づけばページをめくっている、なんてことがしょっちゅうあります。面白いか?と訊かれると回答に困りますが、読んでいて幸せになる、とは答えられそうです。
そして似た様な感覚に陥るのが、太宰治です。やはり今も読み継がれるだけあって、まさに名作と呼びたくなる作品が多いですね。一つ一つが村上春樹と比べると短いのですが、それだけに展開は目まぐるしく、ページを捲る手も止まらなくなってしまいます。中でも『人間失格』はもう何度も読み返していて(中古で2冊、新品で1冊購入しましたが、どれももうボロボロです)、人間の醜さというか、脆さというか、誰もが抱えていながら誰も表には出さない弱さのようなものを、グロテクスとも思えるくらいリアルに表現していて、太宰の生き様も同時に感じられる作品だと私は解釈しています。読んでいて陰鬱な気分になってしまうのですが、それでいて誰かを救ってくれる作品でもあると思います。私もそのうちの一人です。その時その時の読み手の気分によって『人間失格』は表情を変え、違った印象を残してくれます。暗い話ですが、ぜひ一度読んでみてください。
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「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
太宰治『人間失格』より