2024/11/09 13:04

今の時期は、そう呼ばれるそうです。
クリスマスソングは、まだ聴こえません。クリスマスソングのない、クリスマスシーズン。
日本人にとってクリスマスとは、年に一度のビッグイベントでしかありませんが、元を辿ればクリスマスは、キリスト教の宗教行事として世界に広まりました。宗教行事ということは、他の宗教を信仰している方からすれば、クリスマスというイベントに乗っかる必要がないということもあるんです。他の宗教の行事に参加する必要なんてないよね、みたいな感じでしょうか。日本人らしく私は無宗教なのでうまく言葉にできませんが、そんな感じだと解釈しています(押し付けや一般化ではなく、ごく個人的な理解として、このように解釈しています)。
ただ一方で、クリスマスが宗教行事であるとはいえ、もはやその域を出てしまっているのも事実です。世界的に広まりすぎて、元来の意味が忘れられている。形骸化した、宗教行事。美味しいご飯を食べてプレゼントを交換するという、ごく都合の良い部分のみを切り取って、クリスマスと呼んでいる気すらします。じゃあそんな形骸化したクリスマスに参加する人々が悪かというと、そうではないと思います(あくまで無宗教で無責任な立場として)。論点は、クリスマスが形骸化していようがなんだろうが、宗教に関連するものだということです。
ただのプレゼント交換会に成り果てたクリスマスがあったとしましょう。これを、クリスマスと呼んでしまっては、他の宗教の方が参加しにくいんです。宗教的な側面が削ぎ落とされ、なんとなく楽しそうな部分だけを切り取って、みんなで楽しくプレゼントを交換するだけのイベントになっているとしても、クリスマス、という言葉選びに引っかかるという方も多くいるはずです。これはなんとなく想像ができます。
親しい友人や恋人がいたとしましょう。
彼ら(彼女ら)の身内に不幸があった翌年の、お正月。あけましておめでとう、とこちらから声をかけられるでしょうか。
私は古い感性を一部引き継いだ人間なので、喪中というしきたりを、結構忠実に実行します。だからこそ、自分の身内に不幸があれば絶対に、あけましておめでとう、なんて言えませんし、親しい友人や恋人の身内に不幸があったとわかっているなら、こちらに不幸がなくても、あけましておめでとう、と言えないんです。強要もできないし、きっと返しにも困らせることになる。だから、言えない。
身内に不幸があったかわからないくらいの距離感の友人や知人は、なおさらです。ここ数年は、あけましておめでとう、という言葉はもはや意味のほとんどない新年の挨拶でしかなくなり、いやぁほんとにめでたいね、なんて意味で使う人は滅多にいないのですが、それでもやはり気になってしまいます。形骸化した、あけましておめでとう。気にしすぎでしょうか。
ちょっと話を戻しましょう。
クリスマスは形骸化していても、宗教行事なんです。ただ、形骸化しているということは、中身が問題なのではなく、その呼び方が問題なんです。
そこで生まれたのが、ホリデーという呼称。
ハロウィンが終了してから年末年始までの約2ヶ月間をそう呼びます。1年の間で、最も休み感のあるシーズン。クリスマスのみならず、この時期のことを、ホリデーと呼ぶそうです。宗教的な関係で、クリスマスはなんとなく乗っかりにくいけど、ホリデーって響きならなんとなく乗っかりやすい、みたいなことでしょうか。真偽のほどは定かではありませんが、私はこんな感じで解釈しています。
私はこのホリデーが大好きです。
もちろん時期的なこともあります。クリスマスもあるし、私個人で言えば11月には自分の誕生日がある。年末はゆっくりして、毎日土曜日みたいな気分で生活する。年明けは親戚で集まって、おせちに箸を伸ばす。小さな頃は、お年玉もありました。このホリデーシーズンはイベントごとが多く、なんとなく浮き足立つ感じがします。
ただ、私がホリデー好きなのは、その名前の付け方です。
ホリデー。
平等な感じがします。誰も彼もが、合法的にお休みできる感じもします。そして何より、宗教という垣根を超えて、みんなで一斉に盛り上がろうとしている空気感が、何よりも好きなんです。欧米的というか、なんというか。
このホリデー、日本ではあまり定着していないような気がします。宗教的なしがらみがほとんどない社会であり、クリスマスという呼称を変える必要がないからでしょうか。或いは、ホリデーシーズン、なんて言って休もうとすることを、悪とする社会だからでしょうか(休んだっていいじゃない)。
ホリデーシーズンどころか、日本人には休日すらろくにない気すらします。
たまにはゆっくり休んで、何も考えず座っているだけ、なんて時間も必要です。
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