2024/12/20 13:15
雪を喜べない大人には、なりたくありませんでした。
埼玉県松伏町。
関東平野のど真ん中に位置し、一年を通して安定した気候。夏は全国平均程度の暑さがあり、冬はこれまた平均的な寒さ。大規模な災害も少なく、台風はなぜかこの田舎町を避けるように進路を取ります。季節のイベント事といえば、春先のお花見くらいのもので、四季を強烈に感じることは、滅多にありません。
そんな町で、コーヒー屋を営んでいます。
朝。妙な静寂に体を揺すられ、目が覚めます。枕元には、最近貰った進研ゼミの目覚まし時計。あと10分で、いつもの起床時間です。
キンと冷えた空気の中、ベッドから降りる。裸足。足の裏に本格的な冬の到来を感じながら、カーテンを開ける。白く曇った窓の向こうに、チラチラと踊るように落ちてくる、雪。ベランダの手すりが白く見えるのは、真っ白な空を反射した光なのか、眠っている間に積もった雪なのか。ひゅうっと音を立てそうなベランダの窓を開け、間近で検分する。
雪だ。
ボサボサの頭をカモメのようにパタパタと上下させながら階段を駆け下り、朝ごはんを作っている家族のもとへと走る。雪だよ。雪だ。積もるかな。雪合戦、できるかな。
いつもは面倒なはずの学校へ行きたくてしょうがなくなり、この冬初めて活躍するヒートテックと厚手のセーターに袖を通す。中庭が凍ってたら、みんなでスケートしよう。帰りに自分と同じくらい大きな雪だるまを作ろう。長靴、小さくなってるかな。
子どもの頃の私にとって雪とは、数少ない一大イベントのひとつでした。
小さな水たまりが凍ってたらみんなで助走をつけて滑り、ほんの1m足らずのスケートを楽しむ。ほとんど砂利みたいな色の雪玉を作り、雪合戦。ルールなんてあったもんじゃないので、喧嘩になるところまでがセットです(喧嘩してどちらかが泣き出し、険悪なムードで解散して初めて、雪合戦は雪合戦として思い出に刻まれます。喧嘩のない雪合戦を、私は思い出せません)。通学路も、授業も、友達とのおしゃべりも、夜ご飯も、雪が降るだけで輝いて見えました。
夜。父が帰ってきます。
仕事を終えて疲れた父は、母に今日の出来事を話します。
スタッドレスタイヤにしておいてよかった、スリップしている車を見かけた、雪のせいでチエンしてた電車がジンシンジコで完全に止まってしまった。ああ、やっぱり雪が降ると大変だな。
雪のせいで。
そんな言葉を使う人間がいるとは、にわかに信じがたい年頃でした。スタッドレスタイヤも、スリップも、チエンも、ジンシンジコも、なんのことかよく分かりませんが、雪さえ降っていればなんでもハッピーな出来事に変わるものだとばかり思っていました。雪を楽しめない父を、少し哀れに思いました(もちろん父とは仲が良く、一緒に浦和レッズの試合を現地で見て、ビールとコーラをお揃いで買うのが習慣になるくらい親しい関係ですが、雪を楽しめない大人としての父は、どうにも哀れで、可哀想な存在に見えたのです)。
そんな私も、歳を重ねました。四捨五入したら30歳。徐々に歳をとっているなと、急激に思ってしまいます。
先日、旅の行先を決めました。年末だし、ちょっとリフレッシュも兼ねて、一泊二日です。
今の時期、温泉なんかいいじゃないと思いましたが、ろくに調べもせず、思いとどまりました。
伊香保、草津、鬼怒川、いずれも北関東の山間にある温泉です。雪道を走ることに、抵抗を覚えたんです。草津か、雪降ったら怖いな、と。
今年初の雪を温泉街で眺めるという高揚感も、雪の中露天風呂に浸かる風情も、窓の外を眺めながら和室で小料理を楽しむ光景も想像することもなく、道中に積もる(かもしれない)雪に、はなっから挫折してしまいました。
あんなに光り輝いてた雪が怖く、ともすれば命をも奪いかねない存在に見えるようになってしまいました。いえきっと子どもの頃から、雪で滑って転んだら怪我をする、ということくらいはわかっていたのですが、それを恐怖ではなくスリルとして楽しむ度胸のようなものが、当時の私にはありました。
利口になったのか、必要以上に恐れを抱くようになったのか、失敗に対する考えは年々変わり、しかし刻一刻と重たく、失敗しないようにと慎重になっている自覚があります。
成功する方ではなく、失敗しない方を選ぶようになりました。あと先を考えるようになりました。成功の裏側を覗こうと躍起になるようになりました。人の失敗を見て小賢しく学び、成功は偶然の産物だと決めつけるようになりました。雪を、喜べなくなりました。
雪を喜べる状況は、限られています。今日も明日も休みだとか、家から出る予定がないだとか、クリスマスだとか。
大抵の大人(と呼ばれる年齢の人々)は、雪の先にある弊害を想像し、少しだけ嫌な気持ちになってしまいます。子どもとの違いは、後先考えるかどうか、です。後先考えない方が楽だと分かっていながら、これがなかなか難しいんです。与えられた環境の中で、後先考えず目の前の出来事を楽しむ。大人になるにつれ、そんな簡単なことができなくなっています。残念なことに。
ただ私たちは大人なので、まぁ後先考えるのはやめちゃおう、と考えることはできるわけです。本当に後先考えていないのは子どもの特権、後先考えないことにしようと考えられるのが、大人の特権です。
話がややこしくなってきましたが、つまり目の前の景色を、純粋に楽しめる時間や空間って貴重だよねという話です。
私はおそらく他の友人と比較しても、かなり後先考えてしまうタイプです。本気で飲み会を楽しめたことはほとんどありませんし(翌日の朝が怖いんです)、死ぬ気で勉強できたこともありません(頑張った末に点数が低かったら怖いので、ある程度まで頑張って、失敗した時の言い訳用に、意図的に頑張らなかった時間を作るんです)。
毎日何かにビビり続けている私でも、ほんのたまに、まあいっかと脱力し、何も考えずに目の前の景色を楽しめる瞬間が訪れます。
どんな時、と限定することはできませんが、脱力できるののは大抵、理由なくぼーっとしている時です。疲れたから休もうとか、今日は天気がいいから窓を開けて過ごそうとか、そういった時ではなく、文字通り理由なくぼーっとしている時、与えられた目の前の景色を楽しめています。理由のない、脱力。
理由なく訪れ、きっかけなく帰る、そんなお店を作りたいと思っている今日この頃。愛ある無関心を持ち、日々お客様を受け入れています。マザー・テレサは、間違っています。
私にできるのは、後先考えなくて良い環境を提供することです。
後先考えずに目の前を楽しめるよう、最高のコーヒーをお出しします。
窓の外の雪を見て、もの珍しい白さに少し高揚する、そんな空間を用意して、お待ちしています。
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