2025/05/05 18:42

 

 手のひらサイズの林檎。

 袋詰めされた林檎は5つセットにして販売され、道の駅の一角を赤一色に彩っています。
 福島県福島市に建てられたこの道の駅はオープンして3年とまだ真新しく、道の駅全体がほんのりと新築特有の香りに包まれています。家族で帰省した帰りに寄ったこの場所で、林檎は我々を待ち構えていました。

 袋詰めされた5つの林檎は、徳用の大玉林檎と比べるとボリューム感こそありませんが、帰り道に車内で食べることを考えると、やはり手のひらサイズというのは助かります。5つ一気に食べることは流石にないまでも、お腹の空き具合に応じて2個だったり3個だったり、食べる量の融通も効きそうです。第一見た目も可愛らしいですし、間食としては満点と言っていいクオリティでした。真っ赤な林檎を見ていると、小腹が空いていたかもしれないという錯覚に陥ってしまい、気づけば本当に何か食べたくなっています。

 しばらくして道の駅での買い物を終え、家族4人で車へ戻ります。私ももう成人し、運転免許をとってからかなり運転にも慣れましたが、家族での移動はやはり父が運転席を陣取り、助手席には母、父の真後ろの後部座席は私、そして助手席の真後ろには姉といった具合になっており、我々一家が25年かけて形成した文化がそこにはありました。
 道の駅では、5つセットの林檎を2袋購入しました。10個と聞くと多く感じますが、帰りの車内で食べる以外にも、お弁当に入れたり気が向いた時につまんだりと、なんだかんだ10個くらいは食べるのではという意見でまとまり、こうして10個の林檎を帰路のパートナーとして迎え入れたわけです。
 姉と共に後部座席へ乗り込み、林檎の袋を開封します。透明な、どこにでも売っていそうなパッケージです。そこには黄色い楕円形のシールが貼られ、緑色の文字で、青森県産と書かれています。福島県産ではないようです。品種名やその他細かい情報は書かれておらず、あるいは書いてあったのかもしれませんが気づくことはなく、袋から取り出した林檎を手のひらの上に乗せてみます。
 すでに車は動き出しており、隣にいる姉と助手席にいる母にそれぞれ1つずつ林檎を手渡します。欲しいとも言われませんでしたが、はい、と家の鍵を渡すときと同じ手つきで林檎を手渡しました。ありがとう、事務的な感謝を受け、尻切れの返事をした後、改めて手のひらの上の林檎を見つめます。手のひらにすっぽりと収まる林檎。握ってみると、ちょうど指先同士がくっつくないくらいの大きさです。小さすぎず、大きすぎず、ベストな大きさのように思えます。

 自分がこの林檎に名前をつけるならなんて名前をつけるだろう、とおよそ意味のない想像をしてみます。
 姫林檎かな。小さいからってなんでもかんでも姫ってつけがちだよな。うん、やめよう。安直すぎる。そもそも姫林檎なんて多分もうどこかに存在するんだろうな。でも昔テレビで見た姫達磨は結構大きくて、女性の顔をしていたな。ヒメリンゴマイマイってなんだっけ。ああそうだ、染色体数が54本の動物は、というクイズの答えだ。姫林檎っていう林檎だけを食べるカタツムリなのかな。それとも林檎だけを食べるリンゴマイマイってやつが存在していて、そのリンゴマイマイの小さい版みたいなポジションで、ヒメリンゴマイマイがいるのかな。そういえばヒメリンゴマイマイと同じ染色体数の動物ってなんだっけ。結構メジャーな動物だった気がするんだけどな。ヒメリンゴマイマイは確か別解の方だったはず。考えても考えても思い出せない。別解の方がなんだかんだ印象に残ってること多いよな。別解の方がなんだかんだ印象に残ってるって現象に名前はあるのだろうか。僕がこの現象を学会できちんと発表したら、自分の名前がそのまま現象の名前になるのだろうか。青木まりこ現象って勇気あるよな。本屋さんでトイレに行きたくなるという、なんとも絶妙に恥ずかしい現象に自分の名前をつけてしまう青木まりこさんは、果たしてどんな人なのだろう。古本屋さんでトイレ貸してくれるところ、減ったよな。行きつけの古本屋さんも貸してくれなくなった。厳密にいえば貸してくれるのだけど、すみませんトイレ貸していただけませんか、といちいち店員さんに声をかけるのも申し訳ない。なんかちょっと恥ずかしいし。でもあそこ安いんだよな。そうだ、帰ってから時間ありそうだから古本屋さん行こう。村上春樹の小説、誰か売ってくれていないかな。ダンス・ダンス・ダンスの文庫本欲しいんだよな。羊シリーズ、全部読み返したいし。ああ、思い出した。羊だ羊。染色体数が54本の動物。村上春樹さん、どうもありがとう。

 手のひらに乗った林檎を先祖とした連想の家系図は、みるみるうちに子孫を残し、あるとき突然ぷつりと姿を消してしまいます。

 あんたが持ってると小さく見える、と姉。そうかな、と言いながら、手元の林檎と姉が持っている林檎を見比べてみます。確かに姉が持っている林檎は、小さく見えません。大きいというわけでもありませんが、少なくとも手のひらサイズではありません。言うなれば、中くらいの林檎です。うわほんとだ、なんか損した気分になる、と僕が言うと、姉は母に話しかけます。お母さんちょっと林檎見せて。え、林檎?と言いながら、母は右手に持った林檎を後部座席に座る私たち姉弟に見せます。母が持つ林檎は、普通のサイズでした。不思議です。近くのものが小さく見えて、遠くのものが大きく見えます。遠近法が通用していません。
 ちょっと損した気持ちになりながら、林檎に齧り付きます。みずみずしく爽やかな甘さとさっぱりとした林檎の皮が絶妙なバランスを保ち、想像通りの美味しい林檎といった味わいです。渋みもなく、古くなった林檎のようなざらつきもなく、この林檎が福島県産だったなら、同じ味でもきっと評価は変わっていたのでしょう。青森県産であるという微妙な引っ掛かり以外は完璧です。当たりの林檎にありつけた満足感に浸りながら、父の少し雑な運転に身を委ねます。

 道の駅の近くをぐるぐると彷徨ってから有料道路へと進路を取り、気づけば東北自動車道の入り口まで来ています。助手席の母が、ちょっと走ったら交代しようか、と運転席にいる父に提案し、父は一言、うん、と無抵抗な返事をします。サイズの定まらない林檎を1つ食べ終わった僕は、おそらく父の次に回ってくるであろう運転担当に備え、少し眠ることにします。
 ちょっと走ったらって、どれくらいなのでしょう。父と母の間には同一のものさしがあり、曖昧な表現も同じ解釈ができているのでしょうか。よく分かりませんが、父と母のコミュニケーションは長い年月により簡素化され、より単純な形へと進化していったのでしょう。というより、そういうことにしたほうが都合がよさそうです。考えたって仕方ありません。

 半ば諦めながらそっと目を閉じ、眠ることにします。
 中途半端に寝ちゃうと逆に眠くなるんだよな。ちょっとってどれくらいか聞こうかな。いや、いいか。ちょっとはちょっとだ。きっと答えなんてないんだ。ちょっとってすごい言葉だよな。漢字で書くと、鳥渡、でしょ。当て字かな。太宰の小説で何度か見たことがある。今はよっぽど使われないけど、すごい漢字だよな。そう考えると林檎も結構すごい漢字使うよな。林檎。檎って林檎以外で使わないよな。木へんに、猛禽類の禽だった気がする。なんでこんな漢字にしたんだろう。森の鳥だって言い始めた人がいたのかな。いたとしても意味分からないか。森の鳥。よっぽどもすごいよな。よっぽど。余程ってことだろうけど、何をどうしたらよっぽどなんて言葉になるんだろう。ふふ。よっぽど。すごい響き。よっぽど。

 ああ、眠れない。