2025/05/18 19:21
20時。
日が伸びたとはいえ、この時間にもなれば辺りはもう真っ暗です。
駐車場のアスファルトは昼間の熱気を放出し、草木からは土の香りが漂ってきます。地面や樹木に溜まった水分は、湿ったタオルを搾るように、じわじわと空気中へと排出され、素肌はじっとりと生温かくなり、身の回りにあるテーブルやソファは、少しだけ質量を増しています。
ポール・ライトに照らされる新緑の葉は艶やかで、哀愁と生命力が混じり合っています。店舗敷地から300mほど離れた田圃からは蛙の合唱が聞こえ、柔らかに吹く風が季節を運んでゆきます。
20時ちょうどに最後のお客様を見送り、ここからは1人の時間です。
ほのかに日焼け止めの匂いの残る店内を抜けて厨房へ入り、愛用している小型の焙煎機を引っ張り出し、6分30秒かけて予熱します。予熱不足だと焙煎全体もうまくいきませんし、再現性が著しく低下してしまいます。焙煎過程と同じくらい、予熱の時間も大切なのです。
キッチンタイマーで時間を測り、焙煎機を予熱しながら、冷房の温度を少し下げ、お店の締め作業にも取り掛かります。まずはお店の前に立っているのぼり旗を回収し、それから駐車場にチェーンをかけ、店先に出している看板を店内に引き下げてから、レジの精算を行います。レジ精算が終わるくらいで予熱が完了するので、そこから焙煎が始まります。
私の使用している焙煎機はごく小型のもので、1度に400g分しか焙煎できません。ガラス製のこの焙煎機は半熱風式と呼ばれ、小型の焙煎機としては、わりにスタンダードなタイプです。焼きムラが少なく、大きな失敗もしにくいのは大きなメリットとなりますが、大成功と呼べる焙煎をするのには苦労します。良くも悪くもブレないわけです。この焙煎機を使い始めてからかれこれ3年が経ち、ようやくその特性というか、コントロールの仕方が分かってきました。焙煎機内の温度は上がりにくく、少し気を抜くとすぐ下がってしまうので、火力の調整は慎重になる必要があります。火力を上げた瞬間に焙煎機内の温度が上がるというわけではなく、じわじわと時間をかけて温度変化が起きるので、先読み先読みの火力調整が大切になります。火力調整のつまみを捻りながら、長い釣竿の先を使って地面に落ちた小石を整列させるような感覚で、微調整を繰り返していきます。
今日焙煎するのは、ニカラグアのブルボン種。今月の珈琲です。
生豆のサイズはやや小さく、ハゼとハゼの間が短いので、火からあげるタイミングには細心の注意を払う必要があります。
しっかりと予熱した焙煎機に、薄緑色の生豆を400g投入します。焙煎機はシャラシャラと音を立てながら回転し、一定のリズムを守り続けるマラカス奏者を想起させます。BPMは54くらいでしょうか。
焙煎機に生豆を投入したら、ストップウォッチをスタートさせます。焙煎の時間を絶対とするわけではありませんが、経過時間とお豆の状況から火力を調整し、焙煎全体でバランスをとります。
焙煎開始から2分。生豆の持つ微量な水分が蒸発し、湯気として立ち上ります。最初は芝生に似た香りだったのが徐々に変化し、水分が抜け切る頃になると、そら豆のような甘い香りが漂ってきます。この段階で香りを嗅いでも、おそらくそれが珈琲豆であるとは分からないのではないかと思うほど、珈琲の持つ香ばしい香りとはかけ離れています。私自身も生まれて初めて焙煎を行った時、このそら豆のような香りに驚いたことを覚えています。珈琲なのにそら豆みたいな香りがする。けれど同時に、珈琲豆も農作物なのだなと強く実感したことも覚えています。
焙煎開始から4分。生豆の中にある水分は抜け切り、見た目も徐々に変わってきます。焙煎機に入れた当初は薄緑色だった生豆は黄色くなり、ゴールドと呼ばれる段階へと入っていきます。そら豆のような甘い香りはここで最高潮となり、さらに焙煎を進めていくと、徐々に香ばしい香りがし始めてきます。ゴールドに到達したのが何分何秒だったか、これを参考に火力の調整を行います。想定していたより早かった場合は火力を下げ、遅かった場合は火力を上げにかかります。品種や作りたい味にもよりますが、1ハゼのスタートを7分ちょうどに設定したい場合が多いのです。1ハゼが遅れるとお豆の内部までじっくり火が入りすぎることになり、その豆の持つ特徴が薄れていってしまうことがあるため、焙煎の時間にはかなり気を使います。
焙煎開始から7分。パチパチと弾ける音が聞こえてきます。1ハゼのスタートです。
この瞬間、一気に珈琲らしさ満点の香ばしい香りが広がってきます。今回焙煎しているニカラグアは1ハゼの終わり頃を目処に焙煎を終了するので、1ハゼ開始を合図に、火力を少し下げることになります。火力を調整し、少しすると1ハゼのピークがやってきます。パチパチと勢いよく焙煎が進み、煙とも蒸気ともつかないモクモクに包まれます。やがて1ハゼの勢いが落ち着き始め、そろそろ焙煎終了です。
今回のニカラグアは、苦味を極力出さないこと、酸を押さえつつも爽やかな酸をほんの少しだけ残すこと、そして甘さを最大限引き出すことがポイントです。焙煎時間やコーヒー豆の見た目、香り、音など、いくつかの要素を複合して考え、焙煎終了の瞬間を定めます。
1ハゼが終了して間もなく、コーヒー豆の表面に突然ハリが出てきます。このハリが限界を迎えると、2ハゼに突入します。2ハゼまで焙煎を進めてしまうと、このニカラグアは若干の苦味を醸し出してしまう為、2ハゼまでは火を入れたくない。ただ、1ハゼが終了してすぐ焙煎をやめてしまうと、若干酸の印象が強くなりすぎる傾向にあり、1ハゼは完全に終了しているのが望ましい。ただ、1ハゼが終わってから2ハゼに入るまでが、極端に短い。焙煎終了の瞬間は、秒単位で判断を迫られます。
1秒に1回以上のペースでコーヒー豆の状態をチェックし、完璧なタイミングでの焙煎終了を目指します。かなりシビアに神経を使いますが、珈琲屋としての腕を問われているような気がして、最高にワクワクする瞬間でもあります。
回転している焙煎機から豆を数粒取り出し、0.5秒で色やハリ、そして香りを確認し、すぐさま焙煎機に戻す。取り出し、確認し、戻す。幾度かその作業を繰り返し、絶妙なタイミングでコーヒー豆を冷却機に吐き出します。
吐き出されたコーヒー豆は煙を放ち、一気に視界が真っ白になります。
身辺にはコーヒーの香りが充満し、冷却機が煙と一緒に熱を吸い込みます。冷まされていくコーヒー豆を検分し、上出来だ、と自画自賛しながら、新しい生豆を焙煎機に投入します。シャラシャラと音を立てながら、薄緑色のコーヒー豆は回ってゆきます。
コーヒー豆が冷却されるまでの数分間、ふらりと店の外へと出てみます。
外からは焙煎の音が聞こえませんが、ダクトを通じて排出されるコーヒーの香りは店内のそれより強く、湿度を含んだ香りを胸いっぱいに吸い込み、吐き出します。
虫の鳴く声が耳に入り、蛙の声が津波のように押し寄せて来ました。