2025/05/30 14:41

背後の高い窓から夕焼けの空が見え、鴎が、「女」という字みたいな形で飛んでいました。
太宰治作、『人間失格』の中に出てくる一文です。
第二の手記の締めくくりとして描かれ、何気ない風景でありながら、主人公葉蔵のそれまでの人生を、実に上手く表現しています。
内容に触れると長くなりそう(というより確実に長くなる)なので割愛しますが、私が『人間失格』を初めて読んだ際に最も衝撃を受けたのが、この一文でした。主人公の心情や状況を、高く手の届かない窓の外に反映させる、なんとも絶妙な表現です。比喩としてのセンスはもちろんピカイチですが、私が衝撃を受けた理由は、他にありました。
私は、鴎(かもめ)がどうやって飛ぶかを知っています。
壊滅的な画力のなさ故に、実際紙面に描くことはできなくとも、頭の中で想像することはできます。いえ、実際に鴎が飛んでいる姿を見たことがあるかと問われれば、おそらくない、というのが答えになるでしょう。空を飛ぶ鳥を見たときに、あれは鴎だ、あれはハシブトガラスだ、いやあれはハシボソガラスだ、あれはキジバトだと、一羽一羽に固有名詞を与えることは一般的には稀なことであり、空を飛ぶ生き物を見たときには大抵、鳥という一般名詞を当てはめることになるので、鴎を鴎として見たことはありませんが、鴎かもしれない鳥を見たことはある為、翻って鴎の飛ぶ姿を想像することもできるというわけです。ハシボソガラスと鴎を描き分けることはできませんが、鴎を描くことはできるのです(もちろん頭の中で、ということになりますが)。
また私は、女という字も知っています。
小学1年生の頃でしょうか、国語の授業で習いました。書き順はこうです、と当時の担任の先生(眼鏡をかけた、年配の女性の先生でした)は黒板に大きく「女」と書き、バランスをとるコツも同時に教えてくれました。1画目は少し長めに取り、2画目は短めに、そして3画目でやじろべえのようにバランスを取ります(思えば、やじろべえを知ったのもこの時だったのでしょう)。ぐーぐっ、しゅっ、ぐーぅぅ、と言いながら先生は黒板に「女」と書きました。先生のおかげで、「女」という字は私の得意とする漢字にもなり、書いていて心地の良いものになりました。
クノイチという言葉を聞いたことはありますか、と先生は私たちに尋ねました。30人と少しクラスメイトのうち、片手で収まる程度の数の児童が手を挙げ、その中の1人が、クノイチという言葉の意味を殊勝げに発表しました。クノイチとは女性の忍者のことを指すと知り、クノイチは「くノ一」と表記し、女という字の書き順に由来するということも学びました。
黒板に対義語として、「男」という字があったかは、覚えていません。女の対義語は男。そう答えるといつか誰かに、そうじゃないだろう、君は世間を二分するつもりなのか、と言われる気がして、最近は口に出せなくなりました。男という字を、私は上手に書けません。
鴎という鳥、そして女という字も、私にとっては未知の存在ではなく、確かに実在するものであり、その姿形を紙面上(あるいは頭の中)に表現することができます。
ですが私は、鴎と女を紐づけたことはありませんでした。
どちらもきちんと知っていたのに、両者を同時に扱うことをしなかったわけです。
しかし、太宰は違いました。鴎と女という字を同列に扱い、重ね合わせることで、主人公の心情を的確に表現したのです。どちらも全く知らないもの同士を重ね合わせたのではない以上、私にも同じ発想が出てもおかしくないのですが、鴎と女を重ねることはありませんでした。
それ以来、目に見えるものを、別の何かと紐づけることが増えました。夕方のあぜ道は鉛筆で書かれた不確かな直線に見え、遠くに見えるトラクターは使い古された消しゴムに、田圃に吹く風は世論のように見えるようになりました。
見えている景色は大体において同じであり、感性というフィルターを通して我々は異なる世界を感じ取っています。
そう、見えている景色は、大体同じなんです。
先日のハンドドリップ講座では、多くの感性に触れることができました。
同じお豆を使って、同じレシピで抽出を行っても、やはり淹れる人によって味は異なり、もっと言えば同じ人であっても毎回少しずつ味が違うんです。苦いとか甘いとか、硬いとか柔らかいとか、抽象的な言葉を使って、皆が感じ取っている味覚に名前をつけていきました。味覚という至極曖昧な世界に名前をつけることで、見落としていた感覚にも気づくことができるようになります。誰かが、この珈琲は白桃っぽい甘さがある、と言えば、みんな躍起になって白桃に近い要素を探し始めます。その白桃らしさに気づけるかどうかや、白桃という表現自体が正しいかどうかは問題ではありません。五感という広い世界で、白桃という方角を探すことに意味があるのです。白桃という名のコンパスを持ち、皆で共有することが、珈琲体験を面白いものにしてくれます。
そこにいる誰もが、白桃を知っています。同じ珈琲を口にしています。ただ、白桃と珈琲を紐づける習慣がないだけなんだと思います。
私には白桃以外にも、無数のコンパスを持っています。黄桃、ブルーベリー、ラズベリー、葡萄、マスカット、グレープフルーツ、レモン、レモングラス、レモンピール、黒糖、麩菓子、かりんとう、キャンディー、オレンジ、ブラッドオレンジ、みかん、林檎、イチジク、チョコレート、ダークチョコレート、ミルクチョコレート、ホワイトチョコレート、ナッツ、アプリコット、、、。
これらのコンパスを駆使して、珈琲の世界を旅しています。
全てを共有するには時間がかかりますが、ある特定の珈琲を楽しむ時、私がどんなコンパスを使ったかは、メニュー表を通じてお伝えすることができます。約70字のその文章には、私なりの解釈や見解、そして見えた景色が詰め込まれています。
例えば今月の珈琲には、以下のような説明を加えています。
滑らかな口当たりと、完熟林檎のような甘さが特長の、今月のコーヒーです。冷めても味わいの変化は殆どなく、滑らかな質感は時間と共に際立ってゆきます。
同じ感覚や言葉を使う必要はありません。ただ、珈琲という終わりない旅のお供ができればなと、そんな気持ちで今日も新たな発見を探し求めています。
太宰が私にそうしてくれたように、私も誰かに気づきを与えられる言葉を紡いでゆきたいものです。