2025/06/12 18:08


 カーテンを開けても、今が何時なのか分かりません。

 久々の休暇。目覚ましもかけず、起きる時間も決めず、ただ眠るために眠り、気の向いたタイミングでベッドから起き上がりました。薄ぼんやりとした外の景色には時間感覚が存在せず、鈍色の空は早朝にも昼間にも夕方にも見えます。バラバラと打ちつける雨は木々を揺らし、生い茂った葉にあたる雨の音は私に、となりのトトロを思い出させました。

 無造作に布団をたたみ、階下へ下ります。手すりを触りながら12段の螺旋階段を下り、薪ストーブを横目にリビングを突っ切ります。誰もいないアイランド・キッチンで手を洗うと、冷たい水が指先から私を叩き起こし、口をゆすぎながら朝食に想いを巡らせました。

 食器と調味料が一緒に並べられている棚から5枚切りの食パンとコーヒー豆を引っ張り出します。湯を沸かしながら手挽きのミルで豆を挽き、この時間でトーストをどのように楽しむか考えます。きっちり、40g。深煎りの豆を挽く時特有のスルスルとした感触が心地良く、豆を砕くというよりは、丁寧にほぐすような感覚でゆっくりと挽いてゆきます。手挽きではそれなりに時間がかかりますが、トーストの食べ方を決める時間としてはやや短く、早急な意思決定が求められそうです。
 粉砕されたコーヒー豆の香りが鼻を掠め、俄然食欲が増してきます。冷蔵庫を開け、残り物の薄切りベーコンと特売の生卵、昨日買ってきたばかりの新鮮なレタスを取り出します。その他調味料の存在を確認したところでコーヒーを挽き終わり、次の工程へと移ります。
 水を張ったボウルにレタスの葉を2枚入れ、大きめのコーヒー・サーバーに大量の氷を投入します。円錐形のドリッパーにペーパーをセットし、グラインド済みのコーヒー豆を入れて平らに均してから、ヤカンのお湯をドリップ・ケトルに移します。温度計はありませんが、休日にコーヒーを淹れるのに温度を測るのはナンセンスでしょう。

 ゆっくりと蒸らし、豆全体が十分に膨らむのを待ちます。サワサワと音を立てながらコーヒー豆は膨らみ、その膨らみが頂点に達したその瞬間に次のお湯を注ぎます。焦らず、ゆっくり、丁寧に。白いケトルから垂直に注がれるそのお湯は絹糸のようで、ぷっくりと膨らんだコーヒーの山から、香りと甘さを手繰り寄せるようにして抽出を行います。チロチロと滴る琥珀色の液体が氷の山を崩し、カラン、と軽やかな音を奏でます。抽出されたコーヒーは急速に冷やされ、サーバーは美しく曇っています。

 抽出を終え、食パンをトースターに入れ、きっちり3分かけて焼き上げます。
 食パンを焼いている間に、フライパンでベーコン・エッグを作ります。少量の油を敷き、十分に熱してからベーコンを3枚並べます。少し火を入れてから生卵を1つ落とし入れ、しばし待機。白身が程よく固まってきたところで大さじ2杯分の水を入れ、すぐさま蓋をします。何度か爆発したような音が聞こえてきたのを確認してから火を止め、余熱で火を入れてゆきます。高温の蒸気で熱された黄身は少しずつピンク色に染まってゆき、完璧なバランスが取れたタイミングで、チン、と食パンが焼き上がります。
 食パンを取り出し、水色のお皿に載せます。水にさらしておいたレタスの葉を2枚載せ、その上にベーコン・エッグを滑らせます。冷蔵庫からマヨネーズを取り出し、ためらいなく一気にかけてゆきます。等間隔に直線を引くようにかけられたマヨネーズの上に、粗めのブラック・ペッパーを振り、トーストの完成です。名前はなんと言うのでしょう。

 氷入りのグラスと、サーバーに作られた2杯分のアイスコーヒー、おしぼり、そして完成したトーストを木製のトレーに載せ、ウッド・デッキに移動します。

 硬い木製の扉を開け、ウッド・デッキ用のサンダルをつっかけながら、背中で扉を閉めます。
 薄暗く、重たい空気を纏った雑木林に囲まれます。広い森の中で、私と私の家はお互いに背中を預け合いながら、ポツンと佇んでいるようです。絶え間ない雨音は鼓膜を規則正しく揺らし、点と点の連続がいずれ線になるように、雨粒は存在感を消してゆきました。真後ろにある扉が突然消えてなくなってしまうのではないかと不安になり、背中越しに左手で所在を確かめます。扉の木目を少しなぞり、扉から手を離したところで、ぎぃぃぃ、と名前の分からない鳥がどこかで鳴きました。

 アウトドア用のテーブルにトレーを載せ、木製の長椅子に腰掛けます。氷を積んだグラスにアイスコーヒーを注ぐと、ピキピキとダイヤル錠を回したような音を立てながら、氷がひび割れてゆきます。何秒と待たずしてグラスは汗だくになり、大きく息を吸いながら、その中身を一気に半分飲み干します。冷え切ったアイスコーヒーののどごしを堪能し、遅れて濃厚な甘さが広がります。ジューシーで濃厚で、角はないけど芯はある、絶妙なバランスを保っています。
 アイスコーヒーによって胃が刺激され、食欲はピークに達します。
 トーストに齧り付き、半熟の目玉焼きが崩壊します。自分一人しかいない休みなんてこんなもんだろう、と半ば諦観しながら猛烈にトーストを食べ続けます。トーストの上に綺麗に盛り付けられていたレタスもベーコン・エッグも徐々に言うことを聞かなくなり、最後はトーストを半分に折り畳み、なんとか完食します。水色のお皿には卵の黄身が垂れ、角のない世界地図を描きだしています。もったいないな、と皿を舐めようかと逡巡しましたが、さすがにやめておきます。世界地図の動向を見つめながら、手指と口の周りを拭います。オーケー。私にはまだ理性があったようです。少しの安心と寂しさを感じながら、残りのアイスコーヒーを一気に飲み干します。

 この数分で溶け出した氷によりアイスコーヒーは甘さをさらに増し、飲み下した後の余韻は鬱蒼とした森の中へと吸い込まれてゆきます。
 琥珀色の氷だけが残されたグラスにアイスコーヒーを再度注ぎ、今度は少しずつ口にします。一気に飲み下さず、舌の上で転がすようにして楽しみます。液体を転がす、と言うのはなんとも奇妙な話ですが、実際に私はアイスコーヒーを舌の上で転がし、キャンディーのように甘さを楽しむのです。
 リビングから読みかけの小説を持ってきて、ひたすらに言葉をなぞります。いつページが変わったのか、いつ呼吸をしているのか、いつコーヒーを口にしているのか、いま組んでいる足は最初から右足が上だったのか、何気ない自分の行動に説明がつかなくなり、気づけば雨音は聞こえなくなり、そして小説の世界に没入していることには気づくことがありませんでした。

 少し肌寒さを感じ、カーディガンを羽織って、アイスコーヒーを少し口にします。氷で薄まったアイスコーヒーは麦茶のような色をしています。氷はほとんど溶け、コーヒーは向こう側が見えるくらいに薄くなり、時間の流れに気づきます。どれだけ薄まっても無くならない芳醇な甘さにうっとりとし、再度小説を開きます。
 アイスコーヒーを飲み終わったら室内に戻ろう。そう思っていたはずなのですが、いつの間にかコーヒーの存在を忘れ、またしても小説の世界に入り込みます。主人公への感情移入も自己投影も、あっと驚く大どんでん返しも、心揺さぶる悲劇のストーリーも、そこにはありません。小説の中では、ある平凡な男の、平凡な日常が描かれています。先が気になるということもほとんどありません。それでもページを捲る手は止まりません。面白いわけでもありません。次第に、文字を追うのが難しくなってきました。

 1口分だけ残った薄いアイスコーヒーを飲み下し、あたりが薄暗くなっていることに気づきました。
 バラバラと打ちつける雨音が鼓膜を揺らし、木々が生き物のように揺れ動き始めました。コンクリート色の空に向かって、真っ黒な枝葉が手を振っています。

 ぎぃぃぃ、と名前の分からない鳥がどこかで鳴きました。

 美しいとは言えないその鳴き声に、少し気持ちが高揚しました。