2025/10/03 15:23
私は、Z世代が大嫌いです。
Z世代とは主に、1990年代半ば〜2010年代初頭に生まれた世代を指すそうで、1999年生まれの私は、Z世代のど真ん中にあたります。
Z世代が社会を動かし始めた今、文学界にも多大なる影響が出ていると感じます。
私を含めたZ世代は、長いこと待てません。長いコンテンツは、耐えられないのです。
動画だって倍速で見るのが当たり前ですし、新聞でちまちま情報を集めるより、端的にまとめられたネット記事を検索する方が効率的です。テレビニュースは決まった時間にしか放送されず、妙にエンタメ的な見せ方をする場面もあり退屈なので、最近ではAIに経済の情勢を尋ねることがほとんどです。好きでもない芸能人がコメンテーターを務める番組を見るくらいなら、YouTubeでニュースを見た方がマシだとも思います。
そう、待てないのです。
この傾向が顕著なのが、出版業界だと思います。
本屋に並ぶ、あっと目を引くような小説は、軒並み薄くなっています。おまけに文字のサイズは少し大きくなり、行間もページの余白も広くなり、そして紙質も気持ち程度分厚くなっています。実際には200ページあっても、読み心地的には100ページ分くらいしかないものも存在し、とにかく内容が少なくなっています。
本屋の一押しコーナーでは、派手な装丁を施された最新のミステリ小説が平積みされ、一度ミステリでバズった作家が、これからバズりそうな作家を褒めちぎっています。不穏な空気を前面に押し出したタイトルが付けられ、得体の知れない気持ち悪さ、というひどく具体的な恐怖を、これでもかと煽ってきます。
実際にページを捲ってみると、それはそれは不穏な空気が漂っています。
誰もいないはずの上の階から足音が聞こえるとか、昨日まで元気だった人が次々と同じ方法で自殺をしていくとか、ネットのとある掲示板の噂が現実になっていくとか、大体がそんな内容です。
クライマックスに向けてその不穏さは盛り上がりを見せ、最後の一行で筋を通す。世のZ世代的読者は、それをどんでん返しと呼び、YouTubeショートやらTikTokやらで大々的に取り上げる。最後の一行で全てが覆る、とか、大どんでん返し、とか、みんな似たようなキャッチフレーズを付けられています。
若者が本を読むようになる、これ自体は大いに喜ぶべきことです。
出版業界が盛り上がらなければ小説家は減る一方でしょうし、本を買う場が無くなるのは非常に困ります。
ただ、ちょっと文学としてはいかがなものかと、そう思ってしまう作品が増えたのもまた事実です。
あっと驚く構成を作れる作家さんは確かに増えたのかもしれませんが、なんというかこう、どんでん返をしてやろうというその一点に力を注ぎ、それ以外のことがおざなりになっていることが多い印象です。
なんの変哲もない日常で事件が起き、徐々に作品全体が奇怪な雰囲気を帯び、至る所にミスリードと伏線が散りばめられ、一度回収しかけたミスリードをひっくり返し、本当のどんでん返しが起きる、そんな作品はほとんど出なくなりました。こういう作品を書こうとすると、長くなるんです。平気で300ページを超えることもありますし、文字だってぎゅうぎゅう詰めになってきます。Z世代には、耐えられません。内容がどうこうではなく、そもそも活字が敷き詰められたそのページを見るだけで、戦意喪失してしまうんです。故に、単純明快でどんでん返しのみを武器とした作品が、大量に発生するのでしょう。
ここまで書くと、私が最近の作品に苦言を呈しているように思われるかもしれませんが、本質はそこではありません。私も最近の作品を読むことはありますし、それなりに楽しんだりもします。ただ、こういう作品ばかりでは困ってしまうな、ということです。
装丁の見た目とタイトル、そしてどんでん返しにだけ力を入れた作品は、大体において文章がめちゃくちゃです。
話し言葉を主軸に作られた作品は特に、主語が欠落していたり、そもそも日本語が間違っていたり、あえて作者が誤った言葉を使用していることもあるのでしょうが、それでも見過ごせないほど読みづらい作品も多々あります。
構成のわかりやすさとインパクトは、昔の作品にはなかった魅力であり、これは素晴らしいことです。
本といえば、地味で静的で、あまりパッとしない印象でしたが、昨今の小説は一種のエンタメとして広く受け入れられるものになってきました。小説というジャンルが、大きな転換点に来ているとも言えるでしょう。
インパクト重視の、所謂Z世代的文学は、新たな文学として認めましょう。ただ、旧世代の文学にしかない魅力は間違いなく存在し、互いに相入れないものだというのが、私の主張です。
根本が、別物なんです。
Z世代的文学は、構成と見た目のインパクトを、旧世代的な文学は、文章の美しさと侘び寂びを、それぞれ武器にしている気がします。どちらも良いものなのだから、どちらも生き残ってほしいものです。
珈琲だってそうです。
Z世代的なカフェは、見た目が可愛かったり、店内がオシャレだったり、珈琲なのに紅茶のような味がしたり、とにかくインパクト重視です。それはそれで魅力的ですし、素晴らしい文化として今後も存続していってほしいものです。
では、Z世代的なカフェは、味が伴っているのでしょうか。一概にはいえませんが、明らかに美味しくない店が存在するのもまた事実です。オーケー。それはそれで良いと思います。Z世代的なカフェはあくまで雰囲気を楽しむものであり、味で勝負していない(はず)なので、何も問題ありません。本当に、皮肉ではなく、それで良いと思います。
ただ、そういったZ世代的なカフェを、絶対の正義にされてしまうと、ちょっといかがなものかと思ってしまうわけです。
互いの主義を理解し、違ったフィールドで輝きを放つ、これが理想だと私は思います。自分の主義ばかりを押し付け、自分と違う感性を淘汰しにかかるのは、間違っています。多様性を高らかに宣言する人間が、私はどうも苦手です。多様性は認めるものであって、主張するものではないはずです。
私が目指すのは、Z世代的なカフェではなく、味を追求した珈琲専門店です。
表面的なインパクトには頼らず、圧倒的に美味しい珈琲を出すのが、私の正義です。
私は、Z世代が大嫌いです。
1999年生まれの私は、Z世代のど真ん中にあたります。