2026/02/06 15:13
目覚ましをかけなかったのに、珍しく早起きです。
夢をいくつか見た気がするけれど、思い出せません。
気だるさのない、清々しい朝でした。
今日は、勝負の日。気合い十分。
初詣と節分の願い事の全てを、今日のために捧げてきました。ここまで賭けている同級生は、ちょっと見たことがありません。
寝癖を丁寧に治し、姉のヘア・ブラシを使って整える。使ったのは去年以来です。あまり使うと怒られるし、そもそもヘア・ブラシを使っていること自体も、ちょっと恥ずかしい気がします。
朝食をとり、もういつでも出発できる準備は済んでいましたが、あまり早く家を出てもからかわれそうなので、なんとなく歯を磨きながら時間を潰します。犬歯と奥歯の間にある歯には、名前があるのだろうか、そんなことを考えながらテレビを眺めていました。
テレビではチョコレート特集が放送されていました。行ったこともないデパ地下のチョコレートコーナーが大写しになり、どきりとします。僕の心を読んでいるのか、あるいは世間の男子はみんなこんな感じなのか、テレビに心理戦を仕掛けられているような気すら起きてきます。
ボルテージは最高潮。我慢しきれず、いつもより10分早く家を出てしまいました。
いつもの通学路も今日だけはまるで花道のように見え、早咲きの梅が香る通学路を闊歩します。最近ハマっているディズニー・ソングを口ずさみ、世界は豊かさで満ちていて、そのうち植物に挨拶でもし始めそうなくらい、気分上々です。
学校の昇降口へと辿り着き、二階にある下駄箱へ向かって、一段一段階段を踏み締めるようにして上ってゆきます。心臓はバクバク。チョコ、入ってるかな。デパ地下じゃなくても、近所のイオンで買ってきたやつでもいいから、何か入っていないかな。放課後、体育館裏へ来てください、なんて手紙が入っているかな。上履き、くさくなかったかな。
下駄箱の前で小さく深呼吸し、誰かに見られていないか確認しながら、そうっと下駄箱を開けました。
いつもと同じ、昨日の夕方から変わり映えのしない上履きがそこにありました。
ラブレターとか入ってないかな、と上履きをひっくり返したり、下駄箱の中をちょっとだけ覗いてみたりしますが、今の所、それらしいものは見当たりません。
いや、ない。オーケー。認めよう。下駄箱には、何も入っていない。
上履きに履き替え、自分を奮い立たせてから、教室を目指します。
僕は知っている。こういうのは、机の中にあるパターンもあるのだ。
大体、下駄箱にチョコレートを入れるって、ちょっと不衛生だしな、なんて考えながらクラスへ向かいます。
教室には、もう半分くらいのクラスメートが到着していました。こんなに早い時間に登校したことなんてなかったので、それが多いのか少ないのかは分かりませんでしたが、ちょっと多い気がしました。
すでに来ているクラスメートのほとんどが男子でした。僕もそのうちの一人だと気づき、自分だけは違います、みたいな顔をしてみたけど、誰も僕のことなんて見ていませんでした。みんな浮き足立っているんです。
馬鹿げている、と思いました。
自分の席に荷物を置き、教科書を机の中に入れながら、チョコレートがないかを確認します。
机の奥の方までしっかり確認したいけど、あまり手を入れてバタバタしていると怪しまれる。というか、完全に怪しい。バレンタインに期待しているみたいじゃないか。恥ずかしい。
チョコレートじゃなくても、手紙が入っているかもしれない。そうなると厄介です。プリントの切れ端なのか、ラブレターなのか、ちょっと触っただけでは、判断がつきません。
結局、へっぴり腰のスフィンクスみたいな体勢で、しばらく机の中をガサゴソとやっていましたが、何も入っていないことは明白でした。
オーケー。認めよう。机の中には、何も入っていない。
残されたチャンスは、休み時間。直接渡されるなんてことがあるかもしれません。
授業なんて、ほとんど集中できませんでした。休み時間になり、他のクラスの女子がちょっと顔を出すだけで、僕は震えるほど緊張していました。呼ばれるかもしれないと思い、いつでも立ち上がれる準備だけは欠かさずにしていました。友達のうちの何人かは露骨に期待感を露わにし、いつか図鑑で読んだミーア・キャットみたいになっていました。
休み時間には、何も起こりませんでした。隣のクラスの友達(もちろん男子です)が一度僕を呼びましたが、体操着を貸してやったら、そいつはいなくなりました。男に呼ばれただけでちょっと緊張しているなんて、思い出しただけでも恥ずかしく、貸し出した体操着と一緒に、記憶を捨て去りたい気分でした。
五時間目。
国語の授業中、右隣の女子から名前を呼ばれ、こっそりと手紙を渡されました。そっけない表情でした。
ついに来たかと思ってその手紙を開こうとしたら脇を小突かれ、小さな声で怒られました。今は開けないで、的な意味だと思いニヤニヤしてみましたが、その手紙は左隣にいる女子に回して、ということでした。
どちらかというと僕は左隣の女子の方が好みだったのですが、先生が黒板へ向かった隙に、手早く手紙をその子に回しました。指先が少し触れたが、向こうは気づいていないのか、ありがとう、的な笑みを返してくれただけで、それ以上は何も起きませんでした。
立て付けの悪いポストみたいな、そんな気分でした。
波乱の(とは言っても僕の中だけの話ですが)国語が終わり、帰り支度をしました。
帰りにも下駄箱を確認しましたが、朝より冷たくなったランニング・シューズが入っているだけでした。お気に入りの、ナイキのやつ。中学生にしては洒落ていると思うんだけどな、と思いながらきつめに紐を縛りました。
いつもの友達と一緒に帰りました。
彼はチョコレートを2つ貰ったらしいですが、どちらもあまり好きではない子からだったのでちょっと困っている、と漏らしました。平坦で、遺産相続の話をしているような調子でした。
お前は何個貰った?と彼に聞かれ、どうだろう、数えてないな、という不思議な返答をしたら、話はそのまま終わりました。
爛々と咲き誇っていた梅の花は、気づけば通り過ぎていました。手頃な石を蹴飛ばしながら帰ったら、近所のじいちゃん(名前も家も知りません)に、石を蹴るのはやめろと怒られました。車に当たったらどうするんだ、と。すんません、と謝りながら、今度は湿った木の棒を蹴飛ばして歩きました。
家のポストには、夕刊が届いていました。新聞配達員は、チョコレートの入っているポストを今日だけで何回見るのだろう、と漠然と思いました。考えてもしょうがないだろう、と自分に言い聞かせてから玄関を開け、ただいま〜、といつもの調子で声を上げました。
風呂に入って夕食を終え、普段はやらないくせにちょっと早めのテスト勉強をして、入念に歯を磨いてから布団に入りました。
去年も似たようなことをした気がします。
おかげで学年末テストではちょっとだけ成績が良かったけれど、平均も同じだけ上がっていたのを思い出しました。その次のテストではまた元通りの点数になっていたことも同時に思い出し、全男子生徒の意志の弱さを責められているような気分になりました。
階下では両親がコーヒーを飲んでいました。コーヒーの香りは階段を這って僕の部屋へと辿り着き、部屋中隅々まで薄く広がってゆきました。
もうやめてくれよ。苦すぎるってば。
--------------------------------------------
無理やり目を瞑り、ようやく眠りに落ちそうだった頃、誰かが部屋をノックしました。正確に、3回。
名前を呼ばれ、絞り出すように返事をしました。どちらかというと我ながらぶっきらぼうで、穴の空いた金管楽器みたいな声でした。
部屋のドアが開き、体を起こしてみると、眩しすぎる廊下の明かりを背負って両親が立っていました。おいおい、ETみたいな演出じゃないか、と思ったところで、ETなんて見たことないことに気づきました。
ごめん渡すの忘れてた。これ、チョコレートね。バレンタインだからさ。もう歯磨いちゃったから、明日にでも食べてね。
母の手元には、今朝ニュースで見たチョコレートがありました。デパ地下ってやつに、母は行ったのだろうか。或いはネット通販で、或いは近所のイオンで?
父は、謎のドヤ顔をしています。お前は何もしてないだろ。
ありがとう、と一言伝え、僕はまたベッドに潜り込みました。
おやすみ、と言う言葉の余韻を断ち切るように扉が閉められ、部屋の空気がふわりと揺れました。
深呼吸。
吸い込んだコーヒーの香りを、初めて優しいと感じました。
馬鹿げている、と思いました。